あるクリスチャンとの対話Ⅱ 7.10.25
前回の対話の最後でM氏より、聖典などの学び、内容を勉強をするだけが教会(寺)の布教ですか、教えをストンと納得する(信心を得る)のは社会生活のなかで自ら経験なさいというのですか、との宿題をいただいたので、そこからの対話が始まります。
2025年9月23日
住職様
「修養会」で聖書の御言葉を学んできましたが、下記の箇所は大変に有名な言葉です。私は、聖書の最大のメッセージは、罪の許し(イエスの十字架)ですが、次の大きなテーマは「賜物」神様の個々人に対するご計画、であると思っています。その神様のご計画について、下記の翻訳は、通常よりも意訳していますが、キリスト教における「神様」の本質に近いものを感じられると思い、ご住職にお伝えしたいと思いました。マタイによる福音書 11章28~30節(The Message 訳聖書の邦訳 by 中村佐知)疲れていますか?押しつぶされそうになっていますか?もう宗教はうんざりですか?もしそうなら、わたしのところへいらっしゃい。わたしと一緒に行こう。そうすれば、生き返るから。本当の休息の取り方を教えてあげよう。わたしと一緒に歩み、わたしと一緒に働きなさい。そして、わたしがどうやっているのかを見てごらん。自然とわき上がる恵みのリズムを学びなさい。あなたには重た過ぎるものや、合わないものは何も押し付けないから。わたしと一緒にいなさい。そうすればあなたも自由に、軽い足取りで生きる生き方を学ぶだろう。Mより
2025 年9月24日
M様キリスト教の教えを「罪の許し」と「賜物」と適確に示されて、先日の宿題で考えていた事の一つがああこれだったと結びつきました。お寺って何?の問いで浮かんだのは、先々代住職の田舎の山寺時代のこと。田んぼの果ての小高い丘にある寺の説教日。近隣の農家の嫁が挨拶の時にながーい話しをして下さいと。戦前の農村で過酷な労働、舅姑との生活の中、寺に説教を聞きに行く事だけは快く許されたそうです。きりもない田んぼ仕事の合間に、本堂でそよ風に吹かれ、祖父の説教を子守歌に休める一時。帰ると姑が何のお話を聴いてきたのかと。祖父に云われた通り「南無阿弥陀仏の功徳です」、すると姑はニコリ。姑さんも同じ道を゙生きて来たから分かっているのだその苦労は。だけどお互いその過酷の中にしか生きる場所は無い大正昭和初めの生活だったと。そんなだから長い話も大切だったとしみじみとしていた祖父を思い出しました。本堂の中に仏様の恵が確かにあった時代です。物の豊かさが幸せか?と考えさせられるこの頃です。教えを感じる「機」があった仏様の時代は、厳しい時代だったと言っていた祖父を久々に思い出しました。仏様の恩恵を実感出来るのは身近なことの中にこそかなと思います。M様 住職より
9月27日 From M氏
住職様
第二部の対話は、このスレッドから続けるとのこと、承知いたしました。
よろしくお願いいたします。
ご住職のお爺様のお話は、とても良いお話なのですが、1つお聞きしたいことが浮かびました。
この嫁も、姑も、そしてお爺様のご住職も、すべて種明かしを知っていて、長い話をしたり聞いたりしているというお話、この話は、お爺様が、ゆくゆくは後継ぎとなるご住職に話されたのか、それとも、1つの説話として門徒さん皆さんにされたのでしょうか?
私は、門徒さんにされたのだろうと想像します。
そうだとすると、お寺さんで住職が話す説法は、狭い意味での経文の勉強だけでなく、経文の勉強をベースに実社会での生き方の指導も行われると思います。
(聖書、牧師、などと読み替えれば、キリスト教も同じ)
これらの説教の配分の比率で指導者の個性が出て来るのでしょうか。
いくら真に迫った実社会での応用を講義しても、講義は講義であり、実際の経験とは全く異なります。しかし、単なる経典の理解のための講義とも全く違うと思います。
ゴルフのレッスンプロが生徒に教えるのに、スイングのビデオを見せるだけで教えるより、練習場で実際に打たせて教える方が、さらに実際のコースでその1球1球を共に打つことができたら、もっと理解は進むでしょう。
さて、お寺さんや教会は、どのレベルまで説教で教えられるのでしょうか?あるいは、住職や牧師はどこまで教えることを意識しているのでしょうか。
私は、机上での「お勉強」だけでなく、奉仕活動や、イベントなどを通して、実社会とのつながりの中で、いろいろと仏様や神様がおっしゃっていることを学べる(ストンと落ちる)のではないかと思っています。それで、つい、お勉強のプログラムに意見してしまうわけです。
本職の住職様はどう思われますか?
または、門徒指導のトレーニングをお坊様になる学校で受けられたと思いますが、その中にこのようなカリキュラムはあったでしょうか?
このあたりの話題が、もう一方のスレッドの話と結びつきます。お付き合いに感謝します。
M氏より
9月30日
M様
少し話を戻し整理させてください。(HPには「先の手紙」はありませんが以下の対話で内容は想像できると思います)私が歴史的、一般的なことから語ったので布教論になりつつありますか。寺の活動とは何か、の問いに対して先の手紙で伝えるべきは、私とこの寺に関わることでした。1.祖父の時代の寺と村人の生活の中でのかかわり方。2.真宗の伝統的布教の姿。3.私と当寺のこれまでの活動。1.は前のメールの通り2.は毎月参りでの茶飲み話のなかに「法」に逢う「機」があるのだと真宗では考えてきました。また寺の説教日も寄り合った人たちの社交の場でありかつ互いの人柄や話の中から法を感じる場であったこと。さらに無尽講(民間の金融融資活動)祭りの事務所、子供会、町内会、踊りの会、句会など公民館的役割を通じて社会に位置してきたこと。しかし公民館に人々が移りお参りが減る中3.老人施設での出張法話、新しいホスピスなどの会の事務所を寺に置く。月参り先のお宅に近隣の方々が集まり定例の法話会となったこと。等々Mさんからすると、これらの「ゆるい」といわれそうな活動のなかに、何か参考になるものがあればと思った次第です。また歴史的伝統的仏教の歩みからこれからの歩みを考えることも必要と思い先の手紙となりました。その内容はMさんからのお返事で新たなご指摘となりました。さてそのご指摘から少し進めていきたいとおもいます。「住職との世間話の中で仏教を少しずつ学ぶ」ことは宗教の理想形かもしれないが、この情報化社会においては間に合わないのではないのか、と危惧されておられるのですね。念仏の教えの情報量は非常に少ない、「念仏申せ」これだけだと思ってます。毎朝お内仏(家の仏壇;真宗では家は念仏の道場と考え、生活そものが修行だと)に南無阿弥陀仏、月に一度は寺に南無阿弥陀仏、年に一度は本山に南無阿弥陀仏。まず念仏に触れ続けるだけです。これを布教の基本?すべてと教わりました。通常の学習は、易しいものから難しいものへと進みますが、真宗では今生の仏道の学びに於いて、それでは間に合わない、「一番難しい、一番大切な問題から挑みなさい」と。 たとえば、骨董の世界では、修行中の弟子に、はじめに最高の本物に触れさせるそうです。真偽も判らぬ者に、先ず、本物を教える、という方法です。審美眼が、知らず知らずのうちに磨かれるのです。だから「まず念仏、ただ念仏、一番大切で一番難しいものから」これだけなのです。そして家の仏壇に毎朝手を合わせることで大切な念仏が守られ、ハッとする「機」も訪れると思っています。確かに人々は既存の教団を離れ、無宗教化しています、しかしこうも思っています。無宗教は無神論よりずっといい。ご本山は門徒さんを教団に呼び戻したいと先の教団教勢調査でまとめていました。教団の施策も述べていましたが、私は信者数獲得よりも「一宗の繫盛は一人の信を得ることなり」と云われた蓮如上人のお言葉を旨としたいと思います。本当の念仏者になる、真の念仏者を生み出そうと。さて宗教はもとは仏教の用語です。仏教のいろいろな教えの中でどれを宗とする(自分は選ぶか)の意です。無宗教と見える人々はひとつの教義を深く掘り下げてはいないかもしれないが、聖なるものを自然の中や世の習いに見出し、畏怖したり、尊んだり、漠然と感じたりしているだろうと思います。山に川に海に神社に寺に教会にも頭を下げる。初詣、除夜の鐘、七五三、結婚式、竣工式 葬式、神社、寺、教会、神主さん、お坊さん、みなに親しんでいる日本人を私は節操がないというより、許したり許されたりの「ゆとり」の社会を作っていると思います。八百万の神々の伝統だと。宗教離れといわれる現代で、私に与えられたご縁のなかで、ただ一人の信心を手伝えたらなと思います。その縁の始まりに門徒さんに寺参りを呼びかけ続けます。その後は他力の信心ですから阿弥陀様にお任せです。M様 住職より10月4日 From M氏住職様前メールまでのまとめをありがとうございます。その通りです。そして、いよいよ今回の本題に近づいてきたように思います。宗教のゴール、と言いますか求める所は、前シリーズの問答の主題であった「己の無智、罪、闇の中に居ることを認識し、光を求める」ことだと思います(救いと言っていいでしょうか)。(ここは、素人なので、正確な表現でないかもしれませんが、要するに「そういうようなこと」と考えご容赦ください)ある人がそのゴールの状態となるために(実際はその状態にはなれないので、その状態を追い求める者とした方が良いかも、)必要なメッセージ、訓練を与える者、場所が、住職、牧師、寺、教会ではないかと考えています。
ここまでで、私の考えにズレがあったらご指摘ください。そうした中で、その教えを伝える(布教)第一歩として、「毎朝お内仏(家の仏壇;真宗では家は念仏の道場と考え、生活そのものが修行だと)に南無阿弥陀仏、月に一度は寺に南無阿弥陀仏、年に一度は本山に南無阿弥陀仏。まず念仏に触れ続けるだけです。これを布教の基本?すべてと教わりました。」とした場合、次のステップと思える、「家の仏壇に毎朝手を合わせることで大切な念仏が守られ、ハッとする「機」も訪れる」この「機」に会う、多くは外の実社会での「機」と思います、会ったときに、ストンと落ちるためには、念仏だけではなく、住職からの日々?月々?のメッセージが必要なのではないか?あるいは、メッセージだけでも不十分で、何かのトレーニング、あるいは先輩の門徒さんとの社会経験、例えばお祭りや、お寺さんの行事などへの参加が良いトレーニングになっているのではないか、と思っているのです。そのような、大げさに言えばカリキュラムを通して、住職であればなおさら、そうでない一般の門徒さんでも、「私に与えられたご縁のなかで、ただ一人の信心を手伝えたらなと思います」という思いが成就するのではないかと、素人頭で思っているのです。今回の質問は、そのカリキュラムは何かありますか?というものでした。今いただいたお答えは、「毎朝お内仏に南無阿弥陀仏、月に一度は寺に南無阿弥陀仏、年に一度は本山に南無阿弥陀仏」です。他に、この続きは無いのでしょうか?お爺様の場合は、それが茶飲み話や世間話、であったように思いました。Mより
10月7日M様
宗教のゴールはおっしゃる通り「闇なる私と光なる仏の認識」だと思います。一点確認しますと真宗的には、1.罪悪深重(助かり様のない私)の身に気付く。「光に逢ったから闇だったと気付く」2.同時に、その私を必ず助けるという仏の慈悲の光に逢う3.その時既に光の中にあり助かっていたと気付く4.仏に感謝し、報恩謝徳の生活となるこう書きますと1から4へと順次に認識されて行くようですが「闇の中と認識できるのは光を求めていたから」光(法)に逢った時=闇に気付く時=慈悲に気付く時=報恩謝徳=同時の出来事なのです(4はスタートでもあります)。なぜ教義に戻るのか。Mさんはご自身を迷子、闇の中と認識しておられる。そしてゴールを目指し求めている。それは既に光(法)に逢い歩みが始まっている姿と私には思われます。真の仏弟子になっているから悩んでおられる。念仏申せというゴール=スタートに立っていると思います。その悩みを解決?ストンと納得したいというのはMさんの思い描く境地(最終的ゴール)に達したいということでしょうか。その歩みを住職に具体的に寺や社会の活動として教えてくれと。私たちの内面を掘り下げる旅に終わりはないと承知されていると思います。その上で旅の力添えを具体的寺院の活動に求めておられるのですね。「ストンと落ちるためには、念仏だけではなく、住職からの日々?月々?のメッセージが必要なのではないか?あるいは、メッセージだけでも不十分で、何かのトレーニング、あるいは先輩の門徒さんとの社会経験、例えばお祭りや、お寺さんの行事などへの参加が良いトレーニングになっているのではないか」と。その通りだとおもいます。ただその行事にどのように参加できるかは歴史に従うことになるかも知れませんね。そのメッセージを「念仏のいわれを聞く」といい、そのための最重要の行事が「報恩講」です。各寺、本山で年に一度勤まります。その様はホームページにありますが、コロナ前のものが参考になりませんか。参詣者に無償で提供する80~90食の精進料理「おしのぎ」を三日ほどかけて婦人会の方々がご準備しました。僧侶、布教師(しばらく前まで二晩泊りでおねがいしていた)計13人ほどの出仕者の接待役、また世話人は受付や案内役、事前の掃除、幕張、内陣仏壇の模様替え、仏具(真鍮製)のお磨き(今はコーティングしてある)などなど。自坊の報恩講以外、11月中は県内13ケ寺に住職は出仕、門徒さんは参詣に他寺にも一緒にまいりました。5月は少し小規模の「永代経」こちらは行き来する寺は6ケ寺ですが門徒さんのお手伝いは同じです。さらに北陸では今も、村内で一軒が当番で自宅で報恩講をつとめます。その家に集まり「おしのぎ」を作り住職の法話を聞きます。そのために仏間は三十人くらいはお参りできるよう広間になってます。家を仏間中心に作るのです。報恩講では法話ののち「談合」がはじまります。門徒さん同士で、「あんた今日の法話をどう聞きなさったか」と。わたしの福井の寺はお付き合いが3ケ寺と村の報恩講が一軒でした、ただし村の家々はその寺の檀家ではないのです。近くの同じ宗派だけれどそのようなお付き合いが10月中続きます。年中行事ではありますがひと月単位で続くのは伝統のなせるわざでしょうか。関東地方では多分門徒さんの家を会所とした報恩講はほとんどありませんが、門徒さんが自宅を提供し勤めることは協力者を募り可能だと思われます。Mさんのように求めてもらえれば。この他、山車祭り事務所、子供会の上毛かるた練習会など寺は関わりますが、聞法の場にはなかなかなっていません。この先新しい行事などは次世代の住職方に任せる年齢のように思ってます。日常の念仏、年中行事、各家の仏事、門徒さんのかかわり方はだんだん少なくなります。既存の事が伝わっていかないもどかしさは確かにあります。今も模索中です。M様 住職10月11日 From M氏
住職様素晴らしいご説明、世の宗教(正しい宗教、あるいは人生哲学ともいえる?)の教科書の模範になりそうな概論と捉えました。さすがです!勉強熱心なご住職と感服いたします。何度も拝読させていただきました。そのためお返事も遅くなり申し訳ありませんでした。最初の部分の、1.罪悪深重(助かり様のない私)の身に気付く。「光に逢ったから闇だったと気付く」2.同時に、その私を必ず助けるという仏の慈悲の光に逢う3.その時既に光の中にあり助かっていたと気付く4.仏に感謝し、報恩謝徳の生活となる1から4は順次であり、同時でもある。また、4はゴールでありスタートでもある。全くそのとおりであり、使う単語が少々異なるだけで、内容はキリスト教もほとんど同じです。この言葉を紙に書いて机の前に貼り、毎日朗読していたい思いです。その上で、私の思いをご理解いただき、「ストンと落ちるためには、住職からのメッセージだけでは不十分で、何かのトレーニング、あるいは先輩の門徒さんとの社会経験、例えばお祭りや、お寺さんの行事などへの参加が良いトレーニングになっているのではないか」
という私の意見にご同意いただき光栄です。そして、その行事への参加は歴史に従うことになるというご見解、およびご説明をいただき、これまた「納得!」という思いです。考えてみれば、年中行事は、基本的にはどれも(海外も含め)その土地の宗教、信仰が土台となっていると思われます。それは、本来、布教(信仰の教育)の実地トレーニングの場として編み出されたものなのかもしれません。そこで、これらの想定をベースとして考えた場合に、私の疑問あるいは壁に当たるところがあります。このトレーニングの場、報恩講の「おしのぎ」の準備からお祭りの準備、末は公民館の清掃まで、これらを行う人々、婦人会であったり、青年会、子供会、町内会もある、これらのスタッフは、完全ボランティア制なのか、指名制か、当番制か?せっかくの計画された良いトレーニングの場への参加が、完全ボランティア制ですと、全員は参加しないばかりか、否、本当にトレーニングが必要な者ほど手を挙げない(=トレーニングを受けない)ということが起こるのではないか。私の通っている教会は、規模は日本の真宗の寺院の比ではないですが、年中行事もあり、私は、良いトレーニングの場であると、今回のご住職との会話の中から自信を持ってきました。しかし、問題は、その行事の準備等はすべて完全ボランティア制(自由意志参加)を取っており、ともすると、必要な準備ができないことも、あるいはごく少人数に多大な負担がかかるということも起こってしまいます。そうなると、トレーニングや伝統の継承どころではない。ただ、「こなす」だけになってしまいます。もともと、本来の教会は完全ボランティア、自由意志参加制を取っているのだと思います。しかし、それは、キリスト教発祥のバックグランドが日本とは大きく異なるからではないかと思っています。西洋文化では、まず自分が前に出ることが基本です。隣の人と同じにしたいと思う文化は無いと言っていいと思います。(私は狩猟文化だからと思っています。人より大きな獲物を個人的に獲れば良い)だから、自分ができると思ったことは何も躊躇せずに「やります」と言う。農耕文化のアジア人は、まず隣に合わせます、共同でないと農業はできません。(1番には手を上げない)さらに日本人独特の忖度で、できると思っても目立たない方を良しとする。結局、完全自由意志参加にすると、必要人数は集まらない、という結果になるのではないかと思っています。アジア、日本の文化に根付いている寺院の年中行事準備などへの参加は、基本的に当番制なのかなと思い、大変に興味があり伺っています。特に日本人の場合、自由意志だと、まず拒絶。指名すると、指名されなかった人が嫉妬する。当番制で順番に当ててゆくと、意外と頑張って他の人より良い仕事をする。そんな絵が見えてくるのですが、どうでしょうか?欧米文化では考えられない図式です。長くなりましたが、宗教、信仰というもしかしたら人類共通の概念に発し、洋の東西で表現型が違ってくるという、面白い話かもしれません。ご住職のご意見を楽しみにしています。Mより10月13日M様教会行事を通じて、他の皆さんと教えの道を歩みたいとの思い、素晴らしいお志ですね。それでは今回は行事について具体例、管見をお話したいと思います。全くおっしゃられる通り民族、宗教、地域、そして歴史と異なる中で、信心を求めて、気付かぬうちに同じ道を進んでいますね。御同行御同朋です。さて、歴史的に日本仏教寺院は、Mさんの教会と少し異なるシステムを持っているようです。行事の進め方でまず大切なのは、人材(スッタフ)でしょうか。拙寺には普段から世話人、ご婦人手伝方がおり、住職、坊守(住職妻)の相談に乗って頂き、郵送事務、日常の片づけなどを手伝いにきてくださいます。これは3から6名の男性方です。行事のとき(「おしのぎ」があるとき)はさらにご婦人方10名と男性3,4名が必要です。また行事の片づけは当日行うのですが、その時はお参りの方も、椅子の移動や配布物など手伝っていただきます。仏具や幕など多少気を使うものは世話人さんが扱います。皆さん手順はご存じなので私はほぼ見ているだけで、他寺の住職と会議や話をしていられます。歴史的というのは、30名の世話人の多くは先代住職から引き続き、もしくは親子で受け継いでもらっています。私の代では7名新しく総代(宗教法人の理事、本山にも届ける)を世話人さんの了承のもと受けていただきました。うち5名は同級生でMさんも2名は面識がある方です。総代さんは行事のスッタフのみならず、法人の責任もあるので、社会的には名誉に考えられており皆さん受けてくださいます。世話方については寺からの依頼となりますが、一般の門徒さんには行事の前に書面で参加を呼びかけます。参加は自由意志です。これは寺の規模の問題で、残念ながら門徒さん全員が入れる広さが無いのです。また総代さんには本山から直接本山や教区の行事への参加呼びかけが来ますが、これも一部の会議を除き自由参加です。福井の寺は、村の檀家でない門徒の寺であり、かつ市街地に住む檀家の門徒の寺でもあります。報恩講の時8軒ほどの村門徒が掃除、幕張掲示板など近隣への告知の仕事。町の門徒8軒は寄付(資金)を出し合い、「おしのぎ」弁当の手配、出仕寺院へのお礼、諸経費の支払い帳場の管理をします。そこに近隣の門徒が参詣し、「おしのぎ」を食し賽銭をおいていきます。つまりスタッフは16軒ほぼずっと前から続いてます。30名のお参りメンバーも同じです。400年以上日本的全員自主参加です。文化的、民族的、歴史的、よくわからないけどそうするものだと信じています。いわばご先祖の信仰の遺産の上に成り立っているのかなと。愛知の親類の寺はこれまた農村部ですが300軒以上の門徒さんがあるようです。4地域に分かれ当番制で報恩講を営みます。先の福井の16軒の役割の他、10人くらいの「おしのぎ」スタッフが必要となります。スタッフは地区ごとの役員会で決まるようですが、70から80軒の地区で20人位出るのですからこちらの歴史もたいしたものです。そして寺役員が案内を出すと寄付や食材が帳場に集まります。これで成り立っています。高崎の寺のスッタフは指名制。福井の寺は村内と檀家の全員参加。愛知の寺は地域ごとの当番制。どのシステムがというより、中心になるスタッフの確保が大切かなと思います。そしてやはり次世代への継承という点でどこも頭を悩ませています。寺で子供の会を繰り広げたい、これが皆の共通の対策案のようです。ただその未来に関わる種まきの季節はまだ続いているのだろうか、と古稀の住職は不安になるのです。イエス様が説法されている時、姉妹の一人は熱心に聴聞し、もう一人はもてなそうと一生懸命準備していたが、あなたもここで(聴聞?or接待準備?)なさいと。(曖昧な記憶で申し訳ない)どちらがよい信仰の姿なのか、今のキリスト教学ではどちらも善いと聞きました。どちらも善いが同時には出来無い、しかしその行事が続いていけば次回は聴聞できるし、ご接待もできる。行事を続けることは次に目覚めのチャンスを繋ぐ事です。たとえ「こなす」だけだとしても。そう思います。頑張りましょう、お互いに。 住職10月15日(火)From M氏
住職様いろいろな示唆に富んだお話でした。ありがとうございます。年中行事のもう1つの意味を教えていただいたようで、また1つ目が開いた思いです。「行事を続けることは次に目覚めのチャンスを繋ぐ事です。たとえ「こなす」だけだとしても」行事を通したトレーニング(気付き)と表裏一体となるお考えです。本当にその通りです。やはり、日本における寺院(仏教)と教会(キリスト教)との歴史的な違いは大きいですね。本質的な教義そのものは類似していても、社会的な地位、あるいは地域文化との融合度がまるで違うと感じました。例えば、世話人さんの話。おっしゃる通り、物事を為すのは中心となるスタッフ(世話人)が重要です。先ずお寺さんでは世話人は先祖代々受け継がれる、そして、法人の責任もあるので、社会的には名誉に考えられており皆さん快く受ける。つまり、お寺さんが社会の構成要素として立派な地位を築いている。これは、少なくとも私の行っている米国の日本人教会とは大違いですね。キリスト教の国(米国もそうかな?)で、米国人の間で同様な地位が教会にあるのか?私が知らないだけで、有るのかも?ただし、一般論として、教会、寺院の中で世話人さんの地位を高めたとしても、その社会での寺院の地位、教会の地位が全く違えば、社会的意味合いは変わってくるかもですね。米国の大きな教会の世話人さんは、社会的にも地位が高く、皆さん喜んで奉仕されているのかもしれません。(人間的名誉欲と捉えると、話はごちゃごちゃになりますが)世話人さんが名誉であり、結果、皆さん喜んでご奉仕されると、その方々に声をかけられた一般の門徒さんも、名誉半分、服従心半分で、物事は動く。動けばよいのです、年中行事ですから!そして、時は巡り、教えもその範囲では拡がる。そうなると、寺院、教会の社会的地位は、大きな要素になりますね。とても人間的な話に戻ってきていますが。しかし、その社会的地位を超越したところに、仏様の光があり、神様の愛があるわけで、話は見事に堂々巡り~ご住職が、聖書の逸話(ルカによる福音書10章38~42節)を引き合いに出されたのは、嬉しいことであり、さすが勉強されているなと敬服いたしました。あの姉妹は、姉マルタ、妹マリアで、マルタが奉仕の象徴、マリアが聞法の象徴とされていますが、おっしゃる通り、どちらが上とははっきりとは言っていません。ただし、イエスはマルタが不満を言ったことに対し、マリアの選んだとおりにさせなさい、とだけ言った。奉仕も聞法もどちらも大切、他人とは比べない、与えられたことを喜んで生きる。ということを教えられます。が、これはまさに聖書の聞法。実社会で自分がマルタになった時にマリアに不満を言わず、喜んで奉仕できるか?「おしのぎ」準備はそのトレーニングになっているのではないか?結論は出ませんね。考えれば考えるほどに、グルグル回る。ただ回らずに、スパイラルとして上に登りたいものです。Mより
10月17日
M様
今回の対話を「スパイラル」とまとめられました。その通りですね。また私の曖昧な記憶のたとえに正しい教えをフォローして下さり有難いです。
毎回の行事の中で、皆が満足感や気付きに会うわけではないかもしれませんが、継続する中で誰かがいつか聞法の手本となり、その理解を態度や言葉で他者へ伝えていく。しかしまた、歴史が埋もれ行く流れとそれに踏ん張ろうとする人との繰り返し。私も堂々巡りかと思っていましたが、「スパイラル」になれば登れるというご指摘。まさにそのように教えられていたなと思い出しました。痛み入るばかりです。
回っていても登っていく、今回の対話の一区切りの合言葉ですね。有難うございました。
住職