寺院由緒

本元寺(本山東本願寺)の始まりは、とても珍しく、当時の真宗門徒の面目躍如といえるものです。

時代が明治となった時、廃藩置県により、人々は自由に国中を移り住み、新たな土地で夢を求めることができるようになりました。北陸など雪国の人々も、雪のない冬でも働ける関東地方を目指して移り住みました。彼らは、働き者が多かったこの時代でも、特に勤勉でした。
この高崎にも多くの方々が来られ、身を粉にして働き一家を成して行きました。

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旧高崎市中大通ー東武鉄道軌道線(高崎~渋川:明治43年(1910)~昭和28年(1953))

北陸地方は、実は、真宗王国といわれる程、浄土真宗のご門徒の多い地域です。
高崎に来られた人々の多くもご門徒でした。信仰の深い彼らは、この地に大切なものがないことに気付きます。聞法の道場です。それならば、自分たちでお念仏の拠点を作ろうと仲間を集め、お寺の前身である掛所(阿弥陀仏のご本尊を中心に掛け礼拝する場所)を竜見町のご門徒宅を借りて建立しました。明治九年秋晴十月のことでした。

お寺の重要な活動記録である「過去帳」は、明治十年六月から始まります。この頃より、ご本山別院から随時(時々通いで)僧が派遣され、布教活動が始まりました。
この掛所は、一時、檜物町にありましたが、明治二十年代後半に現在本元寺のある北通町に移され、ご本山別院の留守職(定住の役僧)が置かれたようです。
明治三十四年陽十月には東本願寺高崎支院となり、常住の輪番(ご本山の任命により一定の任期を務める交代制の職)が置かれます。お寺としての出発です。その後、数名交代した最後の輪番が、本元寺開基(お寺を開いた初代住職)釈洞之(現住職の祖父)です。着任は昭和十三年鳴神六月のことでした。

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大学卒業後、本山布教使を勤めていたこの僧は、福井県の西德寺住職でありながら、鹿児島別院、神戸別院で教導職を拝命しておりました。しかし、自分たちと共に、この寺をよりよく築いてゆくための若手の輪番を、という高崎のご門徒の要望で、ご本山の命を受け、西德寺を後にして、高崎支院に着任しました。
またこの少し前、当寺の門徒の一部を分けて芝塚町に新たな説教所が、目出度くも高崎の大谷派二番目の拠点として設けられ、現在は専精寺として続いています。

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昭和五年菖蒲五月、上越新井(新潟県妙高市)の廃寺となった真宗寺院より七間四面のご本堂を買い受けて、ご本尊阿弥陀如来さま及び内陣(欄間の彫刻 北村 四海 作)と共に移築されました。この本堂は、大正中期に建立された旧庫裡と共に、先の戦禍をくぐり抜けて昭和五十三年まで(庫裡は平成二年まで)当寺聞法の道場として、多くのご門徒に親しまれておりました。

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戦時中、本堂余間は、二十数名の学生が暮らす逓信学校の宿舎でした。旧庫裡には、一発の焼夷弾が落ち、その時は不発に終わり建物被害のみでしたが、艦載機による機銃掃射により、寄宿生や近隣の子ら数名が死傷するという痛ましい事件もありました。戦後昭和二十四、五年頃までは、引揚者や被災者の方々に住居として本堂の半分が提供され、七、八世帯が生活していました。

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なお、本元寺墓地は、長野堰西側の五万石騒動(明治初期の農民一揆)の碑に隣接して、東町境内地に明治中期から開かれています。

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昭和二十八年蘭七月、明治初頭からのご門徒の願いが成就し、東本願寺高崎支院から真宗大谷派「東陽山 本元寺」となりました。遂に自分たちのお寺ができたのです。

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開基住職には、その功績により、また総代、世話人、ご門徒方の強い要望により、釈洞之が就任しました。特に、総代の廣田松郎、廣田金一、吉田芳林諸氏の強い嘆願には、ご本山も感銘したと伝え聞いております。
この住職とは、寺に住み、ご本山の指名ではなく、ご門徒に推挙されて、ご門徒と共に寺を営む職責を負う者のことをいいます。
ここに独立した自分たちのお寺が完成し、寺院名を本元寺と改めました。

 

戦後、当寺に身を寄せていた引揚者や被災者の方々が、新しい生活へと歩みを進めた頃、世の中にも復興の活気が溢れてきました。ベビーブームが訪れ、新しくこの国を担う子供たちの声が、津々浦々に満ちてきました。
本元寺では、日曜学校が開かれ、近隣の子供たちが毎日のように集い、勉強や遊びに夢中で時を過ごしました。

下の写真は、昭和三十年頃の日曜学校劇団の子供たちです。写真右端は開基住職妻久子(平成八年五月命終)です。image.jpeg

昭和三十六年桃三月、本願寺ご門首のご巡回をいただきました。当寺の総代世話方婦人会の方々のみならず、県内各寺の法中並びに総代、総出でお迎えいたしました。

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写真提供 飯玉町 藤井スエ子 様

前列椅子席の中央がご門首、右横の少年が現住職、その背後、開基住職を囲むように前住職、前坊守、前々坊守。

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さらに昭和三十八年鳥四月には、本山ご新門をお迎えして、地方寺院としては大規模な親鸞聖人七百回御遠忌を執行うまでに、お寺は充実したものとなりました。

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 この時、駅前の八島町から本元寺まで100人余りのお稚児さんとご門徒の大行列が、周辺町内の市民の目を引きました。写真右端先代住職釈誠之。左端開基住職釈洞之。

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旧本堂前の記念撮影は壮観です。

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その後、昭和五十五年桜三月、現在の鉄筋コンクリート二階建、七間四面のご本堂が、檀家ご門徒のご尽力のお蔭をもちまして完成いたしました。開基住職(昭和五十五年三月命終)最後の大事業でした。

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新本堂落慶法要お稚児さんの記念写真

(参加されたご門徒縁者さんより写真提供頂きました)

さらに、平成三年桃三月、境内地取得と現在の庫裡が、二世住職のもと、ご門徒皆様のご努力で完成いたしました。重ね重ね、有難うございました。

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境内地取得とは、とおもわれる方もおられましょうから、少し、付記致します。
今まで述べてきたように、当寺は明治以降、ご門徒が、何もない所から造られました。現在の北通町の境内地には、十軒程の長屋があったようです。ご門徒は少しずつその地を入手されて行きました。
その頃はまだ、常住の輪番は居られなかったようで、ご本山浅草別院から通いの僧が来られていました。ご門徒は、その時々の僧の指導で土地を登記したのでしょう。一部の土地は浅草の名義でした。
当寺の現ご本堂完成の後、浅草別院は真宗大谷派から離脱されました。それに伴い、土地の名義を本元寺にしようということで、冥加金を納めた、ということなのです。

よく皆様から、お寺の名前は本願寺ではないのですか、と尋ねられますが、まさに昭和二十八年から本願寺ではなく、「本元寺」となり、輪番ではなく、「住職」となりました。
開基本元院釈洞之(昭和五十五年三月命終)の後、二世住職 興元院釈誠之(平成十一年八月命終、現住職亡父)下写真、

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三世現住職 導元院釈邦治と歩みを進めて現在に至っております。

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現住職になり、本堂は三十数年の経過で、ガス漏れ、水漏れ、シロアリ被害等、老朽化が著しくなったため一階広間、台所に全面改築を施し、内陣の須弥壇、欄間彫刻、前卓、掛軸は、ご門徒方のお力添えも得て修復することができました。誠に住職名利に尽きるおもいです。

因みに、開基住職はもともと福井県の出で、福井市の大谷派の古刹 西德寺十七世住職に就任いたしておりました。しかし、高崎本元寺住職をお受けすることとなり、福井の地を離れました。さりながら、重恩の西德寺に思いを馳せ、兼務いたしておりました。
昭和五十八年四月、現住職弟隋洞院釋元則が西德寺十八世住職を継承しましたが、平成十七年十月に命終した後は無住寺院となり、現在は管理を村内の方々にお願いしております。


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福井西徳寺旧本堂                 西徳寺十八世 

IMG_2758.JPG西徳寺現況 庫裡(左手)蔵(奥)

このようにご門徒がご自分たちの強い意志で、一から立ち上げた珍しいお寺、それが本元寺です。どうぞ、皆さま住職と共に、ご先祖の願いに応えるべく、当寺の護持興隆にいそしまれますよう、お願い申しあげます。