あるクリスチャンとの対話 7.9.27

「 闇の中では 宝があっても つまずくだけだ」

 法語を縁としてアメリカ在住のクリスチャンの友人M氏との対話

 M氏は私と高校の同級で97年渡米、その後クリスチャンとなり現在アメリカにお住まいです。同窓会でM氏の新聞記事を拝見し、私が「人の心で科学されているのですね。嬉しくなりました」とメールして今回のやり取りがはじまりました長いやり取りなので編集しつつ(文責住職)

 

M氏加筆部分  住職加筆部分

  2025年9月6日(土)From 住職

仏教では闇は罪悪深重の我が身を、光は仏智を意味するのが前提です。
我が身を知れと云われ続けてきました。
自分が闇の中だと気付かないから仏の教えを求めないのだと。
神の教えを信じ前に進もうとする人々と、信心を得る為に自分を省みよという私ども。改めて教えられました。
M様      住職

 

202599() 0:30 

住職様

 とても面白いお話をありがとうございます。

このような信仰のお話ができること、心から感謝します。

 

先に「仏教では闇は罪悪深重の我が身を、光は仏智を意味するのが前提です」

と教えてくださいました。

この点はキリスト教もほぼ同じではないかと思います。

「闇は罪びとである人間の(心の)眼が見えないこと、神が光であること」

と似ているような気がします。

キリスト教では、「だから目を開きなさい、そうすれば光が見えます」と続きます。

仏教では、「自分が闇の中だと気付かないから仏の教えを求めないのだ」の次に、どうするのですか?

わが身を知れ、知った後は?

 (住職加筆)仏智(光)により罪悪深重のわが身を見る。「地獄一定住処ぞかし」と助かりようがない自分に気づかされる。同時にそれを助けずにはおかぬという仏の慈悲の誓いを知る(これも光に逢うこと)

 光により罪悪深重の身を自覚し,親様(阿弥陀様)の慈悲という光を知る。つまり罪の自覚がそのまま救いの慈悲を知るという因果同時の救いを[光]は教えています

 (M氏加筆)「罪の自覚がそのまま救いの慈悲を知る」という点は、全くキリスト教と同じと言ってよいと思います。

仏教:助かりようがない自分に気づかされる。同時にそれを助けずにはおかぬという仏の慈悲の誓いを知る
キリスト教:罪の身を自覚する。神は既に許していることを同時に知る
微妙な差とも言えますが、時空の概念を非常に大きく捉えれば同じこととも言えるのではないかと思います
詩篇11918節は、こう言っています

「私の目を開いてください。あなたのみ教えのうちにある奇しいことに目を留めることができますように。」

目が見えないのはいっしょですが、目を開かせてくれと神様にお願いしています。

自分の力ではできないことを肯定している。

そして、その後のことに聖書は多く触れているような気がします。

 「神の教えを信じ前に進もうとする人々と、信心を得る為に自分を省みよという私ども」

 この対比が、2つの教えの差?

光は見えた(と思った)後に、前に進むか、

光(仏智)を求めるために自分を省みる。。。

前者は光が見えた後の話。

後者は、光を見るための過程の話。この続きはあるのでしょうか?

 (住職;光を見る=罪悪の我身を知る=仏様の慈悲を知る=救い=南無阿弥陀仏のゴール 念仏はなにかを得るための手段ではなく、念仏申す身となることが目的地だと教えられました) 

 M氏;このご説明で、仏様の教えと神様の教えが、ほとんど同じであることが分かります。 すなわち、自分の罪を知る、それと同時にそれを許して下さる神を知る=神の救い・慈愛を信じる=神様を信じるというゴール。人は、神様を信じても罪人であり、許されるが再び罪を犯す、しかしまた許され(永遠の愛)、更に強い信仰となる。

 俗っぽく言えば、光が見えた(と思った)後が「人生」か?

光を見るための努力が人生か?

住;人として光に逢うためにうまれてきたのだと

M;キリスト教では、人は神の似姿として作られた。よって、神と共に歩むときに、生まれた目的に沿い、真の喜びが与えられる(感じる)

 楽しいですね。

Mより

 

  9月9日 M様へ     

宿題頂き有難うございます。こちらこそ勉強になります

闇は色々意味しますが、「道を見失った迷子」生まれて来た故郷、帰りたいふるさとが分からない状態。

人生の広場で楽しいこと、辛いこと、泣き笑い喧嘩仲直り、夢中で過ごし今気付く、迷子になっていると。メンコを集めること、木に登ること、相撲に勝つこと、人生の目的、宝だと思っていた。

宝集めしても、そうでなくても貴方のお家は何処ですかと聞こえる呼びかけに出逢う。(他力からの)

そうだ故郷(本当の願いが成就する浄土)に帰りたい(本願)と気付く(信心たまわる)。

闇(迷子)と気付くと故郷に帰りたいとは思う。

しかし道が分からない、歩く気力も怪しい、寄り道ばかり。(罪悪深重)南無阿弥陀仏(仏様どうしたらよいでしょうか)と唱えよ

同じ道を求めた先人(師)を探せ、一緒に行こうと支えてくれる友を求めよ(御同行御同朋)道も分からぬ我が子に一人で来いとは言わぬ。

きっと来られる、我が、阿弥陀(同じいのちを既に生きた先祖)が常に見守るのだから。

 キリスト教と似ているとの御指摘ほんとそう思います。 住職

 

 2025910() 0:25 

 これは、本当に素晴らしい、宗教学、神学の授業のようです。(受けたことないけど(^^)

さすが、ご住職です!

 貴文章をそのままに、用語を(赤字)のように変えるとキリスト教ですね。。

(失礼ながら、貴文章に勝手に挿入してみました)

 ************

闇は色々意味しますが、「道を見失った迷子」生まれて来た故郷(天国)、帰りたいふるさと(神の国)が分からない状態。

人生の広場で楽しいこと、辛いこと、泣き笑い喧嘩仲直り、夢中で過ごし今気付く、迷子になっていると(罪びとである)。メンコを集めること、木に登ること、相撲に勝つこと、人生の目的、宝だと思っていた。

宝集めしても、そうでなくても貴方のお家は何処ですかと聞こえる呼びかけに出逢う。(他力からの)(神様の声

そうだ故郷(本当の願いが成就する浄土(天国/神の国/神の愛の支配の中))に帰りたい(本願)と気付く(信心たまわる)(神を信じること)。

闇(迷子)と気付く(罪に気付く)と故郷(天国/神の国)に帰りたいとは思う。

しかし道が分からない、歩く気力も怪しい、寄り道ばかり。(罪悪深重)南無阿弥陀仏(仏様どうしたらよいでしょうか)と唱えよ(ただ、神を信じよ。神は既にあなたを許している

同じ道を求めた先人(師)(イエス)を探せ(イエスを追い求めよ/イエスの為したようにせよ)、一緒に行こうと支えてくれる友を求めよ(御同行御同朋)(共に神を信じる者は、神の元の家族)道も分からぬ我が子に一人で来いとは言わぬ。

きっと来られる、我が、阿弥陀(同じいのちを既に生きた先祖)(イエス様)が常に見守る(共に居る)のだから。

************

主旨、言わんとするところはほとんど同じですが、表現が微妙に違う。

1.仏教は受動的表現が多い?キリスト教は能動的?

2.希望の国、「浄土」の位置づけは?

  キリスト教の天国は現世(地上)との対比で、人は天国から一時的に地上(現世)に送られているだけですが、同じ概念として「現世の天国=神様の支配する世」というのがあり、神様を信じれば地上でも天国を味わえる。

3.迷子が道を見つけ、浄土/天国に帰った時に、仏様/神様の反応は?

  キリスト教では、神様は大喜びで大宴会を開いて喜んでくれる。そして、それが死後だけでなく地上の天国(神様を信じたこと)でも同じ。これって、かなりポジティブですよね。

 この辺が微妙な差なんですかね。。。

私は、このような微妙な表現の差は、狩猟民族の欧米人と農耕民族のアジア人との文化的背景の差と考えています。

ですので、お互いがお互いの宗教を理解するためには少しモディファイしないと通じないような気がしています。

 人は、深くて面白いです。(M氏記)

 

9月11日 M様    住職

 2.3の問いかけへのお返事

生きとし生けるものは同じ仏様からのいのちを生きている、だから悉く仏性が有ると。そしてそのいのちは無始より此の方輪廻流転してきた。

それが何と人として生まれ、仏法の教えを聞くチャンスを得た。今生に於いて仏道を進み彼岸に渡らねば二度と仏土には行けず仏となれぬだろう。今こそ仏法僧に帰依せよ(三帰依文、十七条の憲法)

浄土は目的地ではなく、仏になる(真の人となる)ための修行の仕上げの世界、私たちの目的は浄土で仏となり 現世にもどり思うが如く後に続く人びとを救う(導く)ことだと教えられました。

私が仏となる道だから仏道。仏(完成者)になる迄を菩薩道(その先現世に戻る迄仏道は続く)。菩薩道は五十二段階段があり、私たちも日常生活を整える中で既に菩薩道を十から二十段登っているかもしれません。

四十八願が成就する浄土にこの世界で逢うための道ですから。

 少し中途ですが、1の宿題は少し角度の異なる話しとなるので申し訳ない、次回までにまとまればと思います。

住職を育てるのはご門徒さんだと云われてます。有難うございます。

 M様     

 

 2025911() 5:46  

お話が、かなり面白くなってきました

勉強になります&興味あります  M

 

 9月11日 7:38 AM 住職

 1.仏教は受動的表現が多い?に関して

例えば、信心は私が信じる事ではなく、信=覚と親鸞聖人は教えられました。ハッと気付く、目覚める、思わず膝を打つです。私が考えて信じる必要はなく(自力だから)、気付かされる、目覚めさせられる(他力=仏の働きかけにより)事を信心たまわると言います。

又、表現の他の特徴として、「それは有なのでなく無でもない。有でないのでもなく、無でないのでもない。空なのである」と否定文で表します。これは我見(自己の立場に捉われた見方)が入るのを嫌うから。

仏教は無我の教え。善である、悪である、正義であると断ずる事を有無の見と云って我見が入るので嫌います。それで否定文で表現します。

先の「闇の中を闇と知らない」は仏教の重要な課題です。これは「自分は物事、世界を分かっている」と錯誤している事も云います。この錯誤を「無明」と名付け、これが「苦」の起点だと教えます。

思い通りにならない物事、世界を思い通りにしようとして苦しむ。無明が苦を造り出すと。これを仏教は「因縁」と名付けました。無知が苦しみを生み出すのだから、知が苦しみをなくすのだ。そしてその知は仏智、無明の闇を破る光。いつも自分の思いを押し通そうとする罪悪深重の私を照らし破る阿弥陀さまの智慧の光。

と教わりましたが、迷子のままで70歳。今日も一日が空しく過ぎて行きます。  住職

 

2025911() 5:46  

お話が、かなり面白くなってきました

勉強になります&興味あります  M

 

 2025912() From  M

 ありがとうございます。

ご住職のお話を個人的に聞かされ、Discussionできて、とても得している感じです。感謝!

 能動的、受動的の話は、私が言い出したのですが、ピタリとは当たってないですね。

今回のお話を伺い、キリスト教も神様に気づかされる、神様にしていただいているという考えは基本になっていると思います。

基本的には、すべて神様のご計画と理解します。

ですので、キリスト教でも、信徒同志の会話では受動的表現はよくでてきます。

ただし、聖書の中の教えの表現が、命令形、能動的表現なのかもしれない。

 下記の貴文章に、失礼ながら、またまた比較文を赤字で記入させていただきました。

************

例えば、信心は私が信じる事ではなく、信=覚と親鸞聖人は教えられました。ハッと気付く、目覚める、思わず膝を打つです。私が考えて信じる必要はなく(自力だから)、気付かされる、目覚めさせられる(他力=仏の働きかけにより)事を信心たまわると言います。

 キリスト教も、すべてのことは神様のご計画である。

したがって、人が自分で決めて行ったと思ってもそれは神様のご計画であった、、、と。

そして、神様は、自分の作られた私たち人間を愛し、悪いようにはしない。

人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。(箴言 16:9

あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時にそれに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのでる。(第一コリント 10:13

 又、表現の他の特徴として、「それは有なのでなく無でもない。有でないのでもなく、無でないのでもない。空なのである」と否定文で表します。これは我見(自己の立場に捉われた見方)が入るのを嫌うから。

仏教は無我の教え。善である、悪である、正義であると断ずる事を有無の見と云って我見が入るので嫌います。それで否定文で表現します。

 「断ずることは、我見が入る」というのも、キリスト教と全く同じですね。

善悪の判断ができるのは神だけで、人がそれをしようと試みたところに「罪」がある。

つまり、「」が罪の根源で、「無我」(キリスト教では「神」)が善。似てますよね。

無我=他の為(隣人愛)、と続くのですが。

 先の「闇の中を闇と知らない」は仏教の重要な課題です。これは「自分は物事、世界を分かっている」と錯誤している事も云います。この錯誤を「無明」と名付け、これが「苦」の起点だと教えます。

思い通りにならない物事、世界を思い通りにしようとして苦しむ。

 神様には、その人それぞれに最もふさわしい人生の計画を持っているのに、人は自我ゆえにその計画から外れようとし、もがく。それが罪。その罪を認め(ある部分は自我を捨て)神様のご計画に従うことが、この世も含めた天国への道(祝福、神の栄光)。

 無明が苦を造り出すと。これを仏教は「因縁」と名付けました。無知が苦しみを生み出すのだから、知が苦しみをなくすのだ。そしてその知は仏智、無明の闇を破る光。いつも自分の思いを押し通そうとする罪悪深重の私を照らし破る阿弥陀さまの智慧の光。

 ああ~、この箇所、面白い!!

無知が苦しみを生み出すのだから、知が苦しみをなくすのだ。そしてその知は仏智、無明の闇を破る光(阿弥陀さまの智慧の光)。

神様のご計画を知ること。実際は知ることなどできないけれど、良い計画を用意してくださっていることを信じることが、罪、苦悩を無くす。

よく似ていますよね。

1つ、素人ながらに、もしかしたら少し異なるかなと思うことは、阿弥陀さまの智慧の光をどのようにしたら得られるか?

キリスト教では、神は子供イエスを地上に送り、イエスに人の罪をすべて負わし葬ることで、人を許した(罪を取り除いた)。あとは、再び罪を犯さないように、イエスを見本とした歩みをすること。

つまり、一旦罪を許されたこと。そして、罪を犯さないための見本を置いたこと。

この辺りが、思想は似ているけれど、行動基準が少し異なる点なのでしょうか?

************

大変勉強になり、楽しい会話です。

私も迷子の70歳を迎えています。

 今後ともよろしくお付き合いください。 From:  M  Date: 2025914

 

 9月19日 住職 

智慧光をどのように得るか。

大悲無倦常照我

仏様の私共への御心は慈悲、慈しみ悲しむ。何故悲しむか、私共がともすると教えに背くから。罪を犯させないように出来ぬのか。末法の世に於いては難しいと仏様は思っているようです。

交通ルールを教えても、向いに友だち、おもちゃを見つけると赤信号でも飛び出し事故に遭う。その時親はルールを破ったから当然だとは思わない。何故手をしっかり握っていなかつたか、もっとキチンと教えられなかったかと自らを責める。仏様は私共の行為に責任を感じ自らを責める。それを大悲と云います。

私共が何度罪を繰り返しても決して諦めず照らし続けます、私が気付くまで。末法の世に於いて。

仏智に出逢う為、禅宗のお坊さんは禅を示します。真宗のご縁さん(お坊さん)は聞法を勧めます。つまり仏法と門徒さん(浄土の門を進む人)との縁を結ぶために。

けれど聞法は「機」が熟さないと法縁とならぬ事もあります。

仏智が現れるのは「機法一体」の聞法の場に於いてです。念仏申せの法と涼しい風?鳥のさえずり?様々な苦悩?が縁熟すとストンと心に落ち、南無阿弥陀仏が口から飛び出します。空也上人の姿のように!

その時、「衆生が我が名を称えずば仏とならぬ」という阿弥陀様の誓願が成就して法蔵菩薩(阿弥陀さまの修行中の名)は阿弥陀仏となれます。

念仏申す人がいるから阿弥陀仏になれる。子が生まれて親となる。私の念仏の声が阿弥陀を阿弥陀仏たらしめているのだと教わります。

南無阿弥陀仏を゙称名念仏と云いますが、「称」は「かなう」とも読みます。この字の右部分の「つくり」の形は天秤⚖️が釣り合っている姿です。み名を゙となえることは仏様の御心と私の心が釣り合っている事を意味します。この時私は、等正覚(仏智に等しい)となっています。

聞法により機法一体の念仏が声となり口から飛び出す時、そこに阿弥陀さまはおわします。

Mさんのお陰様で私念仏を少し思い出しました。感謝しきれません。

M様  慙愧の念に耐えない住職

 

 ご住職へ

 いよいよ、今回のご講義もまとめに入られているように思います。

大変にありがとうございます。勉強になります。

もう、ほぼ完全と言っていいほど仏教とキリスト教は、根本的には同じようです。

そんなことを言うと、お坊様や牧師さんに叱られるかもしれませんが、私レベルの一般人?から見ると同じです。

したがって、もう、比較の赤字の書き込みは必要ありません。

それほど同じです。単語を入れ替えるだけに近いです。

長いこと、ご講義を本当にありがとうございます。

 

そのうえで、別の話題になるのですが。。。

住職の今回のご説明の中で大変に興味を持ったのは;

けれど聞法は「機」が熟さないと法縁とならぬ事もあります。

仏智が現れるのは「機法一体」の聞法の場に於いてです。念仏申せの法と涼しい風?鳥のさえずり?様々な苦悩?が縁熟すとストンと心に落ち、南無阿弥陀仏が口から飛び出します。

この点です。

 

上で述べましたように、キリスト教も根本がよく似ているので、信徒さんの応答も似ています。

「もう罪は許されているのだから、自信を持って、イエス様の為されたように、神様を信頼して自分の道を歩みなさい」と言われ、「はい、わかりました」と答えながら、現実の場では少しもそのようにしていない。。。。

 そんなある意味普通の「門徒さん」(キリスト教では信徒さん)を導く(ストンと腑に落ちる)には、お寺さんはどうするのですか?

ひたすら説教を聞かせる。経文の勉強をさせる。ということでしょうか?

つまり、お寺や教会は狭い意味の(机上の)「勉強」をさせる所でしょうか?

(この「勉強」には、座禅や修行も含みます)

お勉強をさせ、教え、あとは実世界での経験で学んできなさい。

そんな感じですか?

 私は牧師ではありません。

しかし、2002年に洗礼を受けてクリスチャンになりました。

これまでメールしたキリスト教の考えは、言ってみれば牧師さんから聞かされた内容の私の解釈です。

したがって、住職さんのような専門家ではないので、言葉の使い方等が不正確であるところが多々あると思います。

しかし、それはさておき、今、私の行っている教会での活動が「勉強」中心なので、そんなはずはないと思いつつも、では、他に何があるのだろう?と思うに、やはり、寺院なり、教会なりは、「勉強」をするところなのかな?と思い始め、本職のご住職はどう思っておられるか、訊いてみました。

説法、講義で勉強させて、実社会での失敗や経験を通して、ストンと落ちて、ああ、お坊様の説法はこれだったんだ。。。と、そういうことを期待している?

もちろん、そのためには説教を良く聞き、経文を勉強しなくてはならないでしょうから、その勉強部分それをお寺で行う。

そういうことでしょうか?

 本当に迷子になっているような気がしています。

お時間のある時で結構ですので、お考えをお教えください。

感謝します                 Mより

 

最後にM氏より大変な課題をいただきました。現在住職なりのお返事を書いております。M氏とのやり取りも続くと思いますので、整理できましたらこの対話の続編としてご門徒の皆様には、このページでご披露いたしたいと考えております。

長文の記事にお付き合いいただきありがとうございました。             住職