徒然に履歴
「これからがこれまでをきめる」
色づき終えた桜の葉が、はらはらと舞い落ちる境内を、毎朝開門と共に掃き清めます。その刻限に門前を通り「おはようございます。」と元気に挨拶してくださる男性がおられます。
いつもは挨拶だけでしたが、ある時声を掛けてくださいました。
「このことばはいいですねえ。漢字が一字もない。だからぼくでもよめます。はじめは意味がわからなかったけれど、まいにちかんがえていたら近ごろすこしわかってきました。」
ひと月も同じ法語を門前に掲げていたので、そろそろ替えようかと思っていた矢先でした。
「ほんとうにその通りですねえ。さすがじゅうしょくさんだなあ。」しきりと感心しながら、いつものようにせっせと歩いて行かれました。
かれを見送ってから、私もせっせと竹ぼうきを動かし始めました。
29.12
「われ、汝等(なんだち)諸天人民を哀愍すること
父母の子を念(おも)うよりも甚だし」(大経巻下)
経典には果德を説くもの(果德の経)と、因位の願心を説くもの(因位願心の経)とがあり、浄土教の「大無量寿経」は、数少ない後者の代表的経典です。
果德は、修行して得た悟りの功徳、救い(有難さ、豊かさ)によって、苦が解決される(人生の答えを得る)ことを云います。努力によって幸せになった姿でしょう。果德を求める私たちに、修行(努力)して得ることを教える前者の経典は数多あります。
果德が人生の答えならば、因位は人生の問い(何のために生きるのか、自己とは何ぞや等々)を云います。すなはち自己を求めることです。しかし、自分では見えないものが、自己です。
そこで鏡が必要となります。自己を映す鏡、それが真実の経「大無量寿経」です。苦しみ悲しみから救われたいという欲求の答えを説くのではなく、欲求する自己そのものを、問い続けることの大切さを教えます。
そして、真実の鏡によって見えた自分の姿に絶望されたのが聖人です。この罪悪深重の身がどうして救われようか、と。それでも救いを求め問い続けたとき、「必ず我が子をたすけん」という親心に出遇います。弥陀の本願すなはち願心です。親の心を知るとき、子が救われることを説く「大無量寿経」を因位願心の経といいます。
人の欲求通りに境遇が変わることを救いとせず、どのような境遇に在っても生きて行ける支え、すなはち親心に出遇うことが救いであると説くのです。
29.10
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)
能力才能に恵まれたことを自覚し、自立した意志の強い兄は、幼いながらも人に迷惑を掛けず、その知恵才覚を頼みに一人ふるさとの母の許へと険しい山越えに挑む。
愚鈍で、意志薄弱で悪童を自覚する弟は、教えられた事も忘れ、決め事は守れず、我が家さえ見失い途方に暮れる。思い出されるのは、心配をかけた母のこと。出来ることはただ一つ親の名を呼び探してもらうこと。「お母さん」と。
母はいつも心配している。親の手を振りほどき一人で出来ると旅する兄も、手を繋いでいないと火中にも飛び込む乱暴な弟も。彼らが迷えば、すべて自分の責任だからと慈悲の眼差しで見守る。
しかし、母を探し続ける弟の周りには、「親の名を呼べ」と教えるよき先生、一緒に探そうと励ます友達があり、愚かでも意志が弱くとも歩き続けられる。
もし、幼い孤独な兄が(自力で)母を探せるのならば、無力を自覚し師と朋を頼み「お母さん」と我が名を呼ぶ弟を、母(他力)が探せないはずはない。
我が子が親に助けを求めているのだから。
29.9
「南天竺に比丘あらん 龍樹菩薩となづくべし
有無の邪見を破すべしと 世尊はかねてときたまう」
(高僧和讃)
仏の教えは、世間の通常の規範や価値観とは異なります。
問題が発生したとき、世の中では、まず事実関係つまり表面的な形を確認して自分たちの基準で善悪を判断し、法や規範に照らして対処しますが、仏教ではこれを有無の見と云います。
人の行為や発言の背後にある複雑な感情や意思は、教諭や指導ですぐに改善されるわけではありません。我欲は深く、問題の本質的な解決は困難なのです。ところが、世の中における解決は、如上のように、有無の見で終わってしまいます。
念仏は、問題をさらに深く掘り下げて、形の解決ではなく、そこに関わる己が身の、内心の罪悪深重を自覚する道を教えているのです。
この和讃は、「有無の邪見を破する」の教えが、龍樹菩薩に受け継がれ明らかになるであろうと釈尊がかねてから説かれていたことを、伝えています。
29.7
食前のことば 食後のことば (写真 東本願寺お斎)
み光のもと われ今さいわいに
この浄き食をうく いただきます
われ今 この浄き食を終わりて
心ゆたかに 力身に満つ ごちそうさま
近ごろ、通夜葬儀のお斎を献杯と始めるが、これは乾杯と同じ意味であるから如何なものか。
また、盃をあげていただきます、と言うのもお斎には相応しくなかろう。
心静かに合掌し、食前のことばで始め、食後のことばで仕舞いたいものである。
29.6
「親鸞教室」で講義される大島師 (於渋川正蓮寺)
「念仏往生(成仏)これ真宗」
念仏は称名念仏すなわち念仏申す身となることを、往生は浄土往生すなわち自らの身の上に浄土が開かれることを云います。浄土往生(行事報告履歴:H29春彼岸住職法話参照)には数多の功徳がありますが、特に以下の三つの功徳について(写真の黒板参照)、「浄土論註巻上」のお言葉と大島師の講話を基に考えてみました。
1.妙声功徳
声とは名なり。これは(「平等覚経」にあるように)名の、物を悟らするの証なり。・・・名能く開悟するを妙という。
日常生活において、敵対する者、意見が分かれる者、性分の合わぬ者の考えは聞こうともしませんが、彼らの声を聴き取って心情や意図を汲み取れるようになることを、妙声功徳と説かれています。
2.主功徳
我が国土にはつねに法王ましまして、法王の善力に住持せられん。
主は法王(阿弥陀様)のことですが、また全く頭の上がらない師匠や先生をも指し、浄土に往生するとは、自己を絶対としない、出来ない世界に出会うことです。法王とも云うべき師匠や先生に恵まれ、よき人に出遭え導かれる喜びを、主功徳と説かれています。
3.眷属功徳
わが国土はことごとく如来浄華の中より生じて、眷属平等にして、与奪、路なからしめん。
浄土往生の路は、与奪(指揮や指図)されることなく、誰にも平等に開かれています。同じ路を歩む友があることほど心強いことはありません。聖人が御同行御同朋と云われたよき友を得る喜びを、ここ(「浄土論註」)では眷属功徳と説かれています。(以上住職聴記)
29.3
「凡夫の身にかえる」ということ
「即懺悔」というは、南無阿弥陀仏をとなうるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになるともうすなり。(尊号真像銘文本)
恥を知り反省するという意味で、「慚愧(ざんき)」と「懺悔(さんげ)」という言葉が仏語ではよく使われます。前者は行為に対するものであり、後者は存在に対するものです。
こんなことをして申し訳ないというのが慚愧であり、私が念仏を称えるのは、無限に遠い過去からの罪業をすべて自らの責任として引き受けて恥じ入ること、すなわち懺悔することだ、と表現するのです。
この身を、そして、この世を悪しきものとして自らが引き受けることを、ここでは、「懺悔するになる」と教えています。
悪しきものとは阿弥陀を見失っていることを云い、阿弥陀の教えを喪失したまま煩悩濁世に悪戦苦闘しているもの(悪しきもの=凡夫=穢土)に、凡夫であることを知れ、凡夫の身に帰れ、と南無阿弥陀仏は教えているのです。すなわち、懺悔して自らの責任として引き受けよ、と。
悪しき身を、さらに、悪しき世を引き受け、阿弥陀の教え=弥陀の本願(ねがい)を見出す縁(よき人よき友)に出遇えよ、と。
29.2
28年12月16日午後 於桐生本然寺 寺族坊守研修会 講師 大島義男 師
阿弥陀は光明無量、寿命無量と云う。
光明は明るさ、寿命は暖かさを云う。
人は明るい家庭、暖かい家庭にしたいと云う。
人が願って止まぬものを南無阿弥陀仏と云う。
人は様々な発明や技術の進歩により、豊かな生活を得ようとする。
社会の様相も生活の形態も日々変る、さらなる幸福を求めて。
先を先をと望む幸福は、皆同じものなのか。人其々なのか。
変わる世の中でも変わらぬ願い、即ち、明るい家庭と暖かい家庭と。
希望に満ちた世の中であれ、暖かい活気ある世の中たれと。
その祈りを、光明無量・寿命無量の願い、南無阿弥陀仏と云う。
(住職聴記)
当寺住職、群馬組代表として、本山出仕
十一月二十八日午前十時、ご本山結願日中(御満座)法要に組代表として出仕しました。前日の晩、西本願寺聞法会館 に宿泊させていただき、午前九時、北門より控えの間に入りました。写真は控えの間における装束着用の法中で、この後、衣帯に齟齬(不許可の衣帯着用)なきことを、隣室で係の者が出座と共に確認します。次に、上座の者から名前を呼ばれ並びます。本年は、上座一等北側第六席に出仕しました。外陣の出仕を併せ三百人以上の僧侶が出勤するもので、誠に光栄の至りです。なお、出仕は下臈出仕といい、下座の者より先に座ります。
東本願寺報恩講結願日中法要は、年に一日、ご本山におけるこの座だけの特別な勤行で、坂東節と云われます。二時間半の間、出仕者は正座を崩すことは出来ませんが、それを忘れさせるほどの勇壮な力強いお声明です。前後左右に体を揺すりながらのお勤めで(間違えると隣席の者と頭がぶつかります)、親鸞聖人越後流罪の折の、小舟で波に翻弄されながらのご労苦を偲ぶものと伝えられています。例年、京都の晩秋の風物詩として京都テレビで放映されています。
最後のご和讃「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」の時には、五千人満堂の床が宙に浮き上がるような感覚に捉われます。皆さまも是非、ご本山報恩講にお参りください。きっと、忘れていた大切なものに出遭えるはずです。
太田 一枝さん
一枝さんは、草津の栗生(くりう)楽泉園に、十二歳から入園されています。
園内には真宗大谷派の崇信教会があり、光明寮というお御堂が園の中心部にあります。
群馬組長が教会管主を兼ねるので、ここ五年ほど、年数回、お参りさせていただいております。
当寺は先代及び先々代と光明寮の布教師を務めさせていただき、とくに開基住職の先々代は戦後すぐに訪園し布教のご縁がありましたので、園の方々は平成十年頃までは、当寺の報恩講に毎年お参りいただいておりました。そのため、一枝さんはじめ多くの方々は、私を幼少期から知っておられ、平成に入ってからは、二十年頃まで組のお役として毎月布教に通わせていただき、今のご縁に至っております。
下は、今月(十月)十日 崇信会報恩講に伺った後、一枝さんからいただいたお手紙です。(ご本人の許可のもと、ご披露いたしております。)
拝啓 秋風が戸をたたくころとなりました。
御地では如何でしょうか。
報恩講様お参り出来まして、誠に勿体ない事でございました。
私の昔の事を申し上げますと、昭和十六年十二月十九日 この園に入りました。十二才でした。
来てびっくりしたことは、家にいなかった父が来ておりました。
その時は胃ガンで病棟へ入り何時どうなると言う時でした。
私が父に初めてあふのですから、皆さんが、お父さんとよべと言われても、ながくお父さんとは呼べない 声が出ないのです。
思いかへして、生れて初めてお父さんと呼びましたら、小さい声で「大丈夫だよ」言ってくれました。
その声は七十年余になりましてもおぼえています。
父が句集を出しておりましたので、その中の
あわ雪のきゆるがごとき ゆめの園
これから日々に寒くなります。
どうぞお母さまをお大事に遊しませ。 合掌
白妙の大観世音おわします
高崎山はにしきはへたり
月光に道てらされて帰るかな
るすのわが家へ「ハイ」ただ今と
ふる里を出でてひたすらこの園を
我家とくらして七十余年
合掌 一枝
平成二十八年十月十三日
風雪の日々を歩まれてこられた一枝さんは、いつも微笑まれて合掌してくださいます。「どうぞお母さまをお大事に遊ばしませ」というお言葉は、老いの進んだ母とともに過ごす時間が増え、そこに制約を感じるようになった邪心を遠くから見透かされたように思われました。
そこがあなたの我が家ですよ、と。
「如是我聞」
「姥捨ては 昔話と思いしに 山はだんだん近なって
嫁や息子の胸にある」
「姥捨ては 嫁や息子の胸じゃと思うたが
よくよく阿弥陀に相談したら爺々の胸底谷底にあり」
(福井 前川五郎松さんの語録より)
教えを聴聞すると いつも「私の心が問題だ」と聞こえてきます
それを「如是我聞」といいます
28.8
五月晴れの日に
痩せる為に毎日せっせと歩くことにしました。
高崎城址下の烏川堤防は、広々と開けた風景が気持ちの良い散歩道です。
桜も終わった若葉の頃、五月晴れの風の強い日でした。
道は平坦でとても歩き易いはずなのに、前から来る人たちの足もとが、おぼつかなく見えました。
路上を見ると、赤茶やら、茶緑やら細長いナッツの様なものが散乱し、動いているのもいます。
毛虫です。
間近には木もないのに何処から来たのだろう。
土手から少し離れて桜並木がありました。数日前には青々と若葉の繁っていたその枝が、露わに見えています。
風から自分たちを守ってくれていた葉を、思いのままに食い尽くした虫たちは、土手まで飛ばされ息絶えたのです。
風に飛ばされぬよう、虫を踏まぬように今度はゆるりと歩き始めました。
28.5
「宝があっても 闇のなかでは つまずくだけだ」
闇とは何にも見えないこと 見えてないことにさえ気づかないこと
宝を求め続けて彷徨い 足元の宝を蹴飛ばし つまずく
それでも宝を見つけているつもりでいる どこまでも深い闇の中に私たちはいるのか
無始よりこのかたの深い闇を一瞬で破る光 その宝を照らしだす光 これを仏智という
光にあえば闇が破られ宝が宝としてみつかる 仏智の功徳という
28.4
「照耀十方」 (大無量壽経 上巻)
仏智のひかりは 過去現在未来の三世を貫き 衆生を照らす
いつの時代の どのようなところに在ろうと 私どもを照らし出す
良寛和尚は子供たちに教えられた 「ののさまは、みてござる」
親鸞聖人は正信偈で自らを諭す 「大悲無倦常照我」
(だいひ ものうきことなくて つねにわがみを てらすなり)と
28.3