親鸞教室 6.29
親鸞教室(女性聞法会) 講師 大島義男師
6月26日 午後2時開始 於本元寺 参加者32名
正信偈同朋奉讃回向 寺族門徒の声明が響き合います。
前回(平成28年6月親鸞教室参照)に続き、お文四ノ二十の拝読後。
「念仏成仏これ真宗」というが、「諸仏のすてたまえる(世間の価値観からすると罪悪深重といわれる)女人」が成仏するとは、いかなる仏となることでしょうか。
仏教には、業報(現実の結果、経験の報い)について、
等流因果、すなわち、善因善果や悪因悪果
異熟因果、すなわち、因の善悪と果の善悪は必ずしも一致しない(無記)
という、二様の受け止め方があります。
前者は、はじめに善悪を判断し、悪や煩悩を消して善や悟りを得ようと分別する在り方で、
後者は、善悪を問わず(無記)、まず身を置く(当事者として責任を負う)在り方です。
先日NHKスペシャルの特集で、京都祇園のお茶屋のおかみが取り上げられていましたが、多少の縁があって以下のことを仄聞していました。
祇園のおかみには、昔から受け継がれている三つの決まり事があるそうです。
1.結婚しない
2.女の子を生む
3.その子をおかみにする
以上を墨守することで、お茶屋の伝統が成り立ってきました。現代の価値観からすれば、なんとも怪しからん話だ、ということになるかもしれませんが、祇園の世界における受け止め方は、世間の常識とは異なります。所与のものとして境遇を受け止め、歴史や伝統の命ずるまま、善悪の分別を超えて、何世代も受け継がれてきたのです。それが祇園のおかみという存在で、まさに、異熟因果の道と言ってよいものです。
ところで、生死の苦悩を越えるのが仏道です。
聖道門の仏道は、生死の苦悩を出離するため修行し、煩悩を滅することを目指します。この道の仏は、全く腹を立てない無欲で完全な善人でしょう。善悪を分別し、現実を等流因果として受け止める者が求める仏(善人)は、一体どこに存在するのでしょうか。善悪を判別し、悪の完全な滅却を求めてきた道は、煩悩の消滅した善なる仏を果たして生み出せるものなのでしょうか。
念仏の道は、生死の苦悩の中にむしろ廻入してゆく道です。善悪を分別して悪を滅却すれば終わりというのではなく、分別心に縛られるあまり、苦悩の現実に進んで身を置くことができないこの私こそがまさに問題である、と見出されてきた道です。自らの人生の善悪を判断する前に、ありのままの現実を受け止めよと教える道が、異熟因果の方法、すなわち、念仏なのです。
ですから、念仏の目指す仏(人)とは、いかなる境遇をも頂いてゆく人のことを云うのです。 (住職聴記)
約2時間の講義の後、恩徳讃斉唱で閉会となりました。